クルマ論 ドライビング論

VOL.289 / 290

山内 伸弥 YAMAUCHI Shinya

ラリーテックアンクル代表
1951年生まれ。静岡県浜松市出身。東京の大学在学時からラリーを始め、1975年からチームエンケイで本格的にラリーに参戦し、計7回の全日本チャンピオンを獲得。海外ラリーにも多く参戦したほか自動車メーカーで開発や運転技術の講師を務めるなどクルマに関わる分野で広範囲に活躍している。

HUMAN TALK Vol.289(エンケイニュース2023年1月号に掲載)

国内ラリー黎明期から活躍されてきた往年の名ラリードライバー、山内伸弥氏。
後年はスーパー耐久に参戦するなどオンオフ問わずレースの世界で生きてきた氏に車とドライビングのお話をうかがった。

クルマ論 ドライビング論---[その1]

 僕はエンケイの本社がある静岡県は浜松の生まれでして。大学は東京の中央大学に行って初めての車はフェアレディの1500。ノーマルだったけど、それでラリーの真似事をしていたんです。「舗装のレースをやりたい」と親父に言ったら「お前は死んじゃうからダメだ!」って猛反対されてね、性格を見抜かれていたんでしょうね。それで、ラリーならグラベルだからまあいいだろうと(笑)。東京にあるラリーショップに足繁く通ってはそこの先輩方に夜な夜な山へ連れて行ってもらいました。初めて山に行った時にタイムを計ってみたら、先輩より1分以上タイムが遅くてみんなの速さに驚愕しました。

’79年チームエンケイカラーのサバンナRX-7でRACラリーへ(本人中央)

エンケイとの邂逅

 大学在学中もたまに浜松に帰ってきては車で浜名湖を一周したりしていたんです。それで何かの拍子に実家付近のGSに勤めていたエンケイの鈴木社長の弟さんと知り合う機会がありまして「車好きなんだったらウチでホイール作ってるからさ、君にあげるよ」ってお話をいただいて、それからトントン拍子に話が進み、スポンサーにまでなってくれたんです。地元の自動車クラブを元に「チームエンケイ」と名前も変えて、その名前を背負ってラリーに出ていました。鈴木社長とはその頃からの付き合いですよ。出場したラリーが終わるたびに磐田の遠菱アルミホイールへ報告に行って、しょっちゅう鈴木社長と話をしていました。ホイールの議論も色々としたね。軽くて丈夫なのはいいけど、材料を固くしすぎるとヒットしたときにパリッと割れてパンクする。だからある程度変形しても、材料的に伸びる(靭性が高い)ほうがいい、「これじゃダメだ」とかね(笑)。
 大学を卒業して地元に帰ってきてからは親父がギターのネックを作る会社をやっていて、その手伝いをしながら本当に趣味としてチームエンケイでラリーに参戦していました。それが1970年代の終わり頃の話。その頃横浜ゴムもADVANというチームを作る話が持ち上がって「ラリーは山内に任せたい」なんて話をいただいたんです。でも僕も「エンケイにお世話になってますからそうはいきません、社長を口説いてくれたらなんとかなると思います」と丁重にお断りしたんです。話が通してあるのかと思いきや、通ってなくて、なんかうやむやのうちにADVANに移籍した格好になってしまって、ちょっとバツが悪かったですね。10年後くらいに浜松の飲み屋で偶然鈴木社長とバッタリ会った時に「彼は裏切り者だけど、今やチャンピオンで僕は嬉しいよ!」って太っ腹に笑い飛ばしてくれた事も今では良き思い出です。

‘78年スプリンタートレノでサザンクロスラリークラス優勝

日本一崖から落ちたドライバー

 1979年にチームADVANに入ってからは国内ラリー一本で、当時はTE27トレノ、ミラージュ1600GT、A175ランサーなんかを乗り継いで’77年、’78年、’79年と3年連続で全日本ラリーのチャンピオンになりました。今みたいに海外ラリーにフル参戦するなんて話は出なかったんですけど、毎年RACラリーだけは10年間くらいずっと出させてもらっていました。’78年にはチームエンケイのトレノでサザンクロスラリーに出場してクラス優勝したりね。’79年に全日本でチャンピオンを獲ったご褒美に’80年のモンテカルロに連れて行ってもらったんです。あそこは雪と氷の山道を走るんですが、その時はまだ山の下の方で雨が降っていました。スパイクを打ったスリックタイヤで出て行ったら下りのコーナーでハイドロプレーニングが起きちゃって、ブレーキ踏んだ瞬間そのままドーンと崖下に落ちましたね(笑)。同じSSの手前の方でアリ・バタネンも落っこちてて「お前も気をつけろよ」って言われてたのに落ちたという。
 たぶん日本で名のあるラリードライバーの中で崖から落ちた回数はダントツで僕が一番ですよ(笑)。落ちた回数は断トツの10回以上!よく今まで無事だったなと思う。今でこそ人にドライビングなんて教えていますけど、僕の運転スタイルは昔から「ムリ、ムラ、ムダがあっても速く走る」なんですよ(笑)。普通はね、ムリムラムダは極力排除しろって言うんですけど、自分は逆なんです。当時は「それでも速く走れるぞ!」って自惚れてましたから(笑)。

‘80年ミラージュ1600GTでモンテカルロラリー参戦

HUMAN TALK Vol.290(エンケイニュース2023年2月号に掲載)

クルマ論 ドライビング論---[その2]

 85年にはマレーシアラリーにもRALLY ARTさんからの依頼で出場しました。確かその時篠塚健次郎さんがギャランで、僕がコルディアで出ました。チームADVANではミラージュからはじまって、ラリーに適した車が無い年を除いて三菱の車を伝統的に使っていたんですね。93年にランエボが登場してラリー界を席巻し始めた翌年94年に一度ラリー活動を休止しました。それと前後するように88年だったかな、サザンオールスターズのメンバーのケガニさんに請われてスーパー耐久に三菱のギャランで出場することになったんです。それと89、90年にはGROUP-Aの全日本ツーリングカー選手権デビジョン2にBMW-M3で参戦させてもらいました。成績は2年ともクラス2位でした。
 その後レースはスーパー耐久に2006年まで出ていました。ホンダの技術研究所に勤めていた後輩が声を掛けてくれて、ワンダーシビック、EG6、EK9、DC5のインテグラとホンダを乗り続けましたね。EK9の時はシビックの50連勝を止めたのもうちのチームだったし。最後の年にホンダで乗る車が無くって三菱のランエボに戻ったら、またホンダの人に「裏切り者!」って怒られるという(笑)。
 一応2000年にはEK9でクラスチャンピオンを獲得出来ました。

往年の名車ユーノス・ロードスターを大切に乗る現在の山内氏

2000年のスーパー耐久ではEK9シビックでクラスチャンピオンを獲得

開発ドライバーの教育係に

 85年くらいにヤマハ発動機さんから社員の運転教育をしてくれないかというお話をいただいて、同じころご縁のあった三菱さんからも車両開発の手伝いと社員教育の両方を頼まれるようになりました。社員教育といってもあいさつやマナーじゃなくて運転指導ね。ちゃんと安全に速く、きっちりと走れるようにする教育。メーカーの開発に携わる人は車を正しく評価・開発するのが仕事ですから。正しく評価するためには正しい運転ができなければいけないんです。条件を変えて何回も同じように運転し、車からのフィードバックを正確に受け取る必要があります。運転が毎回バラバラだったりフィードバックインフォメーションを細かく感じることができなければ評価はできませんから。だから開発に携わる人間は正しく運転する必要があるんです。それを指導・育成する人ですね。
 人に教える時は「ムリ・ムダ・ムラ」の自分の運転は横に置いておきます。ドライビングも最終的には理屈です。理屈から考えた運転を極力してもらうように伝えます。一応理屈通りに「こうやって発進しなさい、曲がりなさい」っていうのを見せないとわからないとこあるじゃないですか。僕、そういう運転もできるんですよ(笑)。ヤマハさんの時にはもっと上手い人に先生をお願いしたそうなんですけど「とてもじゃないけどレベルが高すぎてあんな運転できません」って社員さんから泣きが入ったそうで、それで自分が教えたら「このくらい(のレベル)ならできます」って言われたらしく、半端に下手な加減がちょうどよかったんですかね(笑)。

ラリーとサーキットの違い

 ラリーやっていた人がサーキットレースの舞台に行くと、僕らはまともに走っているつもりでも「とんでもないよね」って言われます。やっぱり車の向きの変え始めのなんていうか”乱暴さ”(笑)。後ろに付いている車から見ていると、コーナーの入り口で横のゼッケンが見えるからびっくりしてブレーキを踏んじゃうんだそう。進入の向きの作り方がサーキット出身の人とは違うようです。僕もアクセル丁寧に開けなくちゃとかハンドルを丁寧に切らなくちゃってのはシビックに乗ってはじめてわかりましたもんね。僕なんかはパッとやってポッとタイムは出るんですけどそこから伸びないんですね。レーシングドライバーは地道にどんどんタイムを上げていきますから。横に乗って見てみると「テレー」っと走ってるけど速いんですよね。
 僕はやっぱり自分が一番速いって思えるような性格では無くて、いつも「お前はなんで自信を持たないんだ」って怒られるんです。でも僕は走っていてロスがわかると、もっとこうすれば速く走れるのにって思う、けれどそれができないから自信が持てないんですよ。レースの勝ち負けって比較論じゃないですか。絶対的に速いだけじゃ一番じゃなくて他人より速くないと一番になれない。他人との競り合いにも精神的にも弱いし自分の運転のロスや未熟さも見えてしまうから、自分が速いって感覚になれないんですよね。
 そういうところがあったんで、やっぱり自分は最後まで自信は持てなかったかな。人と競い合うレースの世界には向いてなかったんでしょうね。耐久レースは出ましたけどスプリントは「何がなんでも俺が前」っていう気は全く出なかったですからね。だから僕はラリーの世界で生きてきて、かえって良かったのかもしれないですね。

DC5インテグラで出場時の1コマ(本人中央)

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